日本のプロのパイオニア
プロの雀士の中には、麻雀の歴史に名前を残すぐらい有名な人もいます。古川凱章もそのような人物の一人で、昭和から平成にかけて活躍したプロの雀士です。古川凱章が生まれたのは1938年のことで、2016年に亡くなりました。古川凱章は日本のプロ雀士の草分け的存在で、彼が登場して以降日本に多くのプロが誕生しました。神奈川県の横浜市出身で、都内の有名な大学を卒業した学歴を持っている古川は、プロになる前には出版社で働いていました。ですが、会社の仕事よりも麻雀の方を優先するようになり、入社してから数年で会社を辞めています。その後は、仕事をしないで麻雀を続けていたのですが、そんな古川に転機が訪れたのは1970年のことです。
小説家のグループへの加盟
古川凱章には麻雀を通して知り合った知人が多くいたのですが、その中の何人かと1970年に結成したのが麻雀新撰組というグループです。このグループは有名な小説家の呼びかけで結成されたグループで、古川は小説家の知人から誘われてグループに入会しました。団体に加入する前から古川の名前は知られていて、アマチュアのタイトルのチャンピオンでもありました。新撰組に加盟したことで古川の名前はさらに広く知られるようになり、新撰組は1974年に解散するまで活動を続けていました。グループはマスメディアなどを通して麻雀の楽しさを一般の人にも伝え、人気の定着に貢献した団体として知られています。この団体に影響されてゲームを始めた人も多くいます。
自身の団体を1987年に設立
古川凱章はその後もプロとして精力的に活動を続けましたが、1982年に彼が主催したいのが順位戦101という大会です。この大会では多くの腕自慢の雀士が熱戦を繰り広げました。1980年代には雑誌の編集長を務めていた時期もあり、さまざまな活動で麻雀文化の普及に努めています。古川凱章は1987年に101競技連盟という団体を設立するのですが、この団体は従来の団体とは異なる画期的な特徴を持っていました。特に目新しかったのが点数ではなくて順位で、技術を評価する方法です。獲得した点数よりも勝負の順位を重視することにより、ゲームとしての麻雀に新しい魅力が生まれました。流れを大切にする古川凱章の打ち方は、後輩の雀士にも影響を与えています。
古川凱章は日本のプロ雀士の草分け的な存在で、プロになる前は出版社で働いていました。1970年に結成されたグループに加入したことで有名な存在になり、1987年には自身の団体を設立して、麻雀の普及に努めました。